会長コラム

花瓶を見て花瓶と見ない

一本の花が入った瓶を手にして「これは何に見えますか」と尋ねられた。これは、先日参加したPTA研修でのことである。

「これは花瓶です。」

どう見ても花瓶に見える。

「でも、これは本当に花瓶でしょうか。」

「これは花瓶かも知れませんし、花瓶ではないかも知れません。実は、これが何なのか、私には判りません。」

「花が入っている瓶は、一般的には花瓶です。でも、その瓶に花が入っていなかったら、皆さんにはどう見えるでしょう。人によっては、水差しに見えるか知れませんし、ワインを入れるデキャンタかも知れないし、焼酎を入れる器かも知れません。あるいは見方を変えれば尿瓶にも見えるかも知れませんね。」

なるほど、人間の先入観と言うのは、恐ろしいものだ。

一本の花が入った瓶を手にして、「これは花瓶です」と言われれば、誰もが花瓶と思いこんでしまう。ある意味で、人間はいい加減な判断をしているのかも知れない。

花が入っている状況証拠だけを見て、花瓶と判断するのは、物の本質を十分に把握していないということである。花が入っていることがトリックであったり、偽装するための道具であることを、何ら疑うことができない。

正確に言えば、疑うという表現は誤りかも知れない。勝手に思いこんでいるのであって、騙そうとしているのではなく、誤解している場合だってあるのだから。

私が言いたいのは、この一点である。物を見て疑えというつもりは、毛頭ない。先入観を捨てて、物の本質を知ろうということである。

今回の例を出したのは、物の本質を知るということに関し、物を見て疑えということと、先入観を捨てるという二つが混同、誤解されているように思うからである。

物の本質とは何か。

この瓶の例で言えば、見た目では本当のことは判らないということである。時には、手にして感触を確かめたり、あるいは、どのような場所におかれ、どのような目的で使われるのかまで、聞き出さなければ判らないということである。

これが何の目的で、どのような使われるのかが判れば、ことは簡単だ。私が言う物の本質とは、じっくりと付き合い、向かい合うということ  ........
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 この続きは、堀田 信弘の公式ブログ「活・喝・勝」 http://hottaworld.com を参照してください。

2008年3月 3日
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